沿革

明治7年(1874)頃、東京大学医学部の前身である東京医学校で、ドイツから来た解剖学教師ウィルヘルム・デーニッツが法医学に関連した講義を行っていました。その後、デーニッツは警視庁の裁判医学校(すぐ警視医学校に名称変更)で裁判医学の講義を行うとともに、解剖を実施しました。警視医学校の廃校後、その学生が東京大学医学部に編入しました。この時期が当法医学教室の源流と言えます。

明治15年(1882)に刑法施行が迫った頃、政府は法医学知識を有する日本人医師の養成を喫緊の課題と考えていました。当時、東大では生理学教師のディーゲルが司法省所員や警視庁医員に裁判医学の講義を行い、学生であった片山國喜が通訳をしていました。明治14年(1881)、司法卿の要請により、その片山が医学部卒業後わずか2年で助教授となり、東京大学別課生に日本人教師として初めて裁判医学の講義を行いました。その後4年間のドイツ・オーストリア留学を経て、明治21年(1888)、帝国医科大学(帝国大学令により名称変更)教授に就任、翌明治22年(1889)、裁判医学教室を開きました。これが当教室の創立であり、わが国における専門教室の始まりでもありました。さらに、立法上など裁判以外の問題も研究するべきという趣旨で、明治24年(1891)、裁判医学を法医学と改称しました。司法解剖は当初司法省内で行われていましたが、これも片山の意向によって明治30年(1897)から、東京大学の解剖室で行われるようになり、現在に至っています。

二代教授三田定則は血清学(現免疫学)教室を創設し、抗原抗体反応、補体結合反応など当時の血清学研究の最先端を担う業績を残しました。

三代教授古畑種基はABO式血液型研究の第一人者であり、鑑識学の発展にも貢献し、犯罪史上に残る帝銀事件、下山事件等の解剖を手掛けました。四代教授上野正吉は補体を発見し、また法医病理学の発展に尽くしており、医事法にも目を向けました。また、全国の検視官に対する法医学講習を開始しました。五代教授三木敏行は、紛争により四年間司法解剖ができませんでしたが、血液型を用いた親子鑑定に多くの業績を残しました。六代教授石山昱夫は法医病理学の普及に加えて、DNAフィンガープリント法、PCR法を法医学実務に導入しました。七代教授高取健彦は死体現象の生化学的解明を進め、地下鉄サリン事件では、生化学技術を駆使して被害者からサリンを検出しました。

平成11年(1999)より平成25年度まで八代教授吉田謙一が、虚血による心筋変化、心理ストレスの心臓性突然死への影響、睡眠時無呼吸症候群の分子病態、異状死や診療関連死の死因調査制度の検証などに関して、先進的研究を行なってきました。

平成26年度(2014)より、岩瀬博太郎が九代教授として、千葉大学と兼任で着任しています。警視庁管内ではじめてCTを導入し、検視におけるCT利用を進めています。また千葉大学法医学、東京医科歯科大学との連携を軸に、法中毒学、法歯科学、法遺伝学、臨床法医学など1法医学教室では困難な法医学の多様な実務を実現し、国民の権利、安全を守る法医学を目指しています。

参考) 法医学年表(東京大学 健康と医学の博物館 第8回企画展「死の真相を知る医学 -法医学-」より)